1976年。昭和51年。
東京都下に一つの写真館が誕生しました。
名まえは、『広映堂』。
近くのレコード屋からひっきりなしに流れてくる「およげ! たいやきくん」。
この当時はまだ、そうフイルムの時代でした。
フイルム ― デジタル全盛の今だから言います。
「こんなの、全然うまく写らない!」
確かにそうです。フイルムの撮影で満足のゆく作品を写すためには、豊富な経験が絶対に必要でした。撮影時のデータを記憶し、結果の露出を経験値として積み重ねてこそ、次の撮影の失敗が減ってゆくのです。しかし、そんな並々ならぬ忍耐と情熱の壁に打ち負かされそうになる中、この写真館では店主の対応が、他とは少しばかり違っていました。
仕上がったプリントに、丁寧な助言をしてくれる。これは普通です。
ここの店主は、一歩踏み込んで「今度一緒に撮影に出かけませんか?」
さらにもう一歩踏み込んで「次の土曜日はどうですか?」と。
同じ撮影現場に立つという事は、景色はもちろん空気や色や匂いまで共有するという事です。その現場での言葉や助言は、その現場でなくては聞けない言葉や助言のはずなのです。
被写体を見つけ、露光を選び、確信のシャッターを押す。その一つ一つに経験したことのない気づきと発見があるとしたなら、どんなに胸が高鳴り、興奮に打ち震えることでしょう。
しかもこの写真館の店主は、ただの写真館の「お兄さん」ではなかったのです。
写真家として日本で最初の文化功労者となる渡辺義雄氏に師事し、自らも頻繫に個展を開催、世に若手の写真家としての地歩を確実に固めていた人だったのです。
当然、噂を聞きつけて、写真愛好家が集まってくる。評判が評判を呼び、誰もが自分の作品への一言に血まなこになり、結果、写真教室の扉が開かれる事となってゆくのでした。
教室名「広映会」
主催 写真家 原槙春夫氏
広映会の誕生です。
当初、教室は初心者対象のほかに中級クラスもあり、どちらも50人を超える盛況でした。
やがて1995年、二つの教室を一つにまとめ、例会・撮影会・写真展を三本の柱として、事務局と会長を選出し、新しい会へと生まれ変わりました。
「広映会」― そこに切磋琢磨はあっても、他者との競い合いはありません。
会員同士はライバルではなく、親しい仲間です。
ただただ自分の技量に向き合い高めてゆく事を旨とする、それが「広映会」の真髄と言えるでしょう。
広映会は原槙先生指導のもと、写真歴数十年の大ベテランから初心者まで、年齢も経歴も様々なメンバーが活動しています。
今回はそんなメンバーのうち会長の石田さんをご紹介します。
会長はこんな人
Q. 写真を始めたのはいつですか?
写真を始めたのは、18歳頃でコンパクトカメラ購入からです。
どこへ行くにも有頂天で記念撮影をしていましたね。若い頃は欲しいものだらけ、だからバイト漬けでした。一番欲しかったのは車です。そして山道具、それからカメラへと移っていきました。
広映堂(写真店)に寄るようになり、店長さんとは年齢が近いこともあって、よく相談に乗って頂いたりしたのが縁で、待望の一眼レフカメラを購入。これで俺はカメラを持ったマンだ! 一気に写真の世界に引き込まれることとなりました。衝撃的だったのが山と渓谷の写真と嶋田忠さんの写真集カワセミでした。こんなきれいな鳥がいるんだと驚いたものです。しかも近くの川にも生息していると知り、友達と二人で夢中になりましたね。週末は川に集合して、その行動を見守ったものです。見つけた時には嬉しかったですね。川面の光や夕陽と一緒に撮影しようと粘っていたのもいい思い出です。20代半ばのことです。
当時の私の先生は会社のパートのおばちゃんでした。仕事の進め方から、ものの考え方まで面白く学びました。小説を読みだしたのもこのころです。新田次郎の「聖職の碑」がきっかけとなり、それからは一気に新田作品を読み漁りました、気が付けばテントを持ち、山頂を目指すようになりました。この時に見た高山植物は驚くほどきれいでしたね。
Q 広映会に入るきっかけは?
原槙先生からフタバフォト倶楽部への誘いをいただき、翌年から入会となりました。ここからクラブ写真がスタートしました。
自然しか撮影したことのない私にとって、フタバフォト倶楽部での日々は知らないことづくめの連続でした。
例会? 講師が渡辺義男先生だということも、、、?
どの年配の方も先生に見えてしまうという嘘のようなデビュー戦でした。そして先生を送り届ける役を引き受けていたのが原槙さん。おかげで車の中では、普段聞けない話をたくさん聞かせていただきました。取り急ぎ作家と作品を読み漁り、アサヒカメラ・カメラ毎日・日本カメラなどを読み、古本屋で記事を見つけると買ってきて頭に叩き込むようになりました。そうしないと作品はともかく話が見えませんでした。頭は写真のことであふれるほどでした。この渡辺義男先生とはいったい何なんだ! どうして俺がここにいるんだ!、、、、。
原槙先生とはいろんなところにもご一緒させていただきましたが、このフタバフォト倶楽部の時代が一番懐かしいですね。
その後今の広映会へと移り、数年後に二代目の会長として、原槙先生と共に活動させていただいております。その間にも先生は写真集作成に忙しかったですね。そうした姿をずっと見てきたような気がします。
私が仕事でつまずいていた頃、雑誌で一本桜に出会いました。
夜中に長野まで車で飛ばしていくと、暗闇から「何をくよくよしているんだ!」と、元気をもらいました。それからの私はこうした自然の中から学ぶことがたくさんあるんだ!と実感しました。
この時から『山川草木(さんせんそうぼく)、皆師なり』は私の人生訓となりました。
その後の桜撮影は楽しかったですね。カメラが故障したときには一度お店に戻り、これをもっていけ!と再度山梨まで。
その後もスタジオの暗室を使わせていただき、白黒写真の勉強をさせていただいたこともいい思い出です。
私は暗い中にも明かりのある風景や、寒さの中にも温かさを感じる写真が好きです。雪中の桜、雪のローカル線も夢中になりましたね。
Q.最後に、会長はどんな人?
自分はどんな人かと聞かれてもよくはわからないんです。仕事でも仲間でもよく助けてもらったなと感謝しています。随分助けもしましたがね。
今後は体の健康を踏まえながら、まだまだやるぞと厳しい世界も覗いてみたいですね。
好きな言葉は“ありがとう!です。
こんな私ですが、よろしくお願いいたします。
石田章
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